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大阪高等裁判所 平成2年(ラ)426号 決定

甲事件(425号)抗告人 井出友子

乙事件(426号)抗告人 古田悦子

原審申立人亡西川忠承継人 西川レイコ 外1名

被相続人 西川千里

主文

原審判を取り消す。

被相続人の遺産である別紙財産目録〈省略〉記載の各財産のうち、甲事件抗告人井出友子及び乙事件抗告人古田悦子に対し、それぞれ、1の(1)(2)記載の各不動産及び2の(3)ないし(18)記載の各動産の共有持分各3分の1を、原審申立人亡西川忠承継人西川レイコ及び同西川昇に対し、それぞれ1の(1)(2)記載の各不動産及び2の(3)ないし(18)記載の各動産の共有持分各6分の1を分与する。

理由

1  本件各抗告の趣旨と理由

甲事件については別紙(1)、乙事件については別紙(2)のとおりである。

2  本件は原審申立人(その承継人も含む)4名のうち2名から即時抗告の申立てがあったものであるが、家事審判規則119条の7により原審申立人(その承継人も含む)全員について即時抗告の効力が生ずるので、全員について各財産分与の申立ての当否を検討することとする。

3  そこで、まず、原審申立人亡西川忠承継人西川レイコ(以下「承継人レイコ」という)及び同西川昇(以下「承継人昇」という)の各申立てについて検討するに、原審申立人亡西川忠(以下「忠」という)が平成2年7月9日死亡した後、承継人レイコ及び同昇が忠の申立人たる地位を相続により承継したと申し出たのに対し、原審判は、財産分与請求権は相続の対象とならないとして、承継人両名の各申立てを却下した。

なるほど、特別縁故者の地位は、その者と被相続人との個人的な関係に基づくもので、財産分与の申立てをするか否かはその者に意思に委ねられていて、その意味で一身専属性の強い地位であるから、特別縁故者であったと考えられる者が分与の申立てをすることなく死亡したときは、その相続人がその地位を承継したとして分与の申立てをすることはできないと解すべきである。しかしながら、その者が一旦分与の申立てをすれば、相続財産の分与を受けることが現実的に期待できる地位を得ることになり、その地位は財産的性格を持つものであるから、その後その者が死亡した場合、分与の申立人たる地位は相続性を帯び、その相続人はその地位を承継するものと解するのが相当である。

そして、一件記録によると、承継人レイコは忠の妻、承継人昇は忠の長男であり、忠の相続人はこの2名であると認められるから、承継人両名は忠の財産分与申立人たる地位を各2分の1の割合で承継したものというべきである。

そこで、以下、抗告人両名及び忠について、特別縁故者に該当するか否かを検討することとする。

4  一件記録によって認められる事実は、次のとおり訂正、付加するほか、原審判理由の要旨1の(1)ないし(4)に記載のとおりであるから、これを引用する。

(1)  原審判2枚目表2行目の「千里には相続人がない。」を「被相続人には法定の相続人が見当たらなかったので、相続財産管理人が選任され、同人の請求により相続人捜索の公告がなされたが、期間内にその権利を主張するものがいなかった。」と、同7行目の「男性があって」を「辻雄二と昭和56年ころまで交際を続け」と、同裏初行の「知人」を「友人の清原賢治」とそれぞれ改め、同裏6行目の「あった」の次に「更にこの3名は、菩提寺である○○寺に被相続人の永代供養を依頼するとともに、遺骨は被相続人の母亡西川トシコの位牌と共に○○本廟の納骨ロッカーに納めた。これら全ての費用は、3名が均等に負担した。」を加え、同3枚目表2行目から3行目にかけての「それ以前、」から同5行目の「知らなかった。」までを「その入院の少し前ころから、深夜毎日のように被相続人から電話がかかってきて、長時間話すようになった。被相続人は退院後も1か月に数回の割合で電話をかけてきていた。」と改め、同10行目の「同居した。」の次に「被相続人は前記のとおり妊娠中絶や自殺未遂等で何度か入院したが、ヤスヨはその都度付き添って被相続人の面倒を見、抗告人悦子はヤスヨが持ち帰った衣類の洗濯をする等してヤスヨの手助けをした。」を加える。

(2)  同3枚目裏7行目の次に改行して、以下のとおり加える。

「(5) 忠は、被相続人より5歳年長であるが、少年のころ、同じ○○市内に居住する被相続人方を訪ねる機会がしばしばあり、被相続人ともよく遊んだ。成人してからは次第に疎遠になり、法事等を除けば出会う機会も少なかったが、昭和55年ころから、被相続人は忠にしばしば電話を架け、長電話をするようになった。昭和58年に被相続人が入院したのは被相続人の友人の清原賢治から知らされた。忠は被相続人から保護義務者になることを頼まれたが、これを断った。被相続人は、退院後も、1週間に1、2度は忠に電話を架けてきていた。(6)被相続人が縊死の状態で発見された前日の昭和60年12月15日、被相続人は○○寺の関係者である武藤裕子に自宅に来てもらい、自分の死後、自宅の土地建物を、抗告人両名、忠、友人の前記清原及び○○寺の五者で分けてほしい旨伝え、更に同日、抗告人両名及び忠にそれぞれ電話を架け、各人に対し同様の話をした。

(7) 被相続人は非嫡出子であり、兄弟姉妹なく、父方の親族とは全く交際がない。被相続人は○○市内で生まれ育ち、抗告人両名及び忠も○○市内に居住していたため、子供のころから交際があった。被相続人は、結婚したことはあるが短期間で離婚し、その後辻雄二と交際があったが、昭和56年ころまでには別れた。子はない。伯母のヤスヨが昭和53年に死亡してからは、被相続人の血縁の濃い親族で生存しているのは、従兄姉である抗告人両名及び忠のみであった。」

5  以上の認定事実にもとづき検討する。

(1)  抗告人両名及び忠は被相続人に残された最も血縁の濃い親族であった。しかも右3名は被相続人と同じく○○市内で生まれ育ち、子供のころから一緒に遊んだりして互いに親しい感情を抱いていたものと推認できる。特に、抗告人悦子は、同居していた母ヤスヨが被相続人の面倒をみた際、これに協力することが多かったし、昭和43年ころからは被相続人と家が近所になり、出会う機会も多く、よき相談相手として交際していた。

(2)  もっとも、忠が被相続人の入院の際の保護義務者になることを頼まれながらこれを断ったこと、その入院費用は被相続人の友人である前記清原が出捐したこと、入院当時の面会、外出等の記録によると、被相続人は抗告人ら及び忠よりもむしろ清原ら友人を頼りにしていたように窺えることなどに照らすと、抗告人ら及び忠と被相続人との関係が、必ずしも常に良好であったとはいえず、互いにその交際に一線を画していた面も窺える。しかしながら、被相続人がその入院の前ころ、そして退院してから死亡までの間、抗告人ら及び忠の許に頻繁に電話を架けて長話をしていたことに鑑みると、被相続人は最終的には抗告人ら及び忠を精神的に頼りにしていたものと推認すべきである。

(3)  死亡の前夜、被相続人はわざわざ武藤裕子を自宅に呼んで、自分の死後、自宅を抗告人両名、忠、清原及び○○寺の五者で分けてほしい旨話し、更に周到にも抗告人両名及び忠に電話を架けて同様の話をしたのであるから、これは死を覚悟した被相続人の真意であったものと認めるのが相当である。被相続人が精神的に不安定な面があったとしても、これを軽視するのは相当でない。

(4)  してみると、抗告人両名及び忠は、被相続人とは血族四親等の親族であり、かつ被相続人にとってみれば生存親族の中で最も血縁の濃い3名であった上、子供のころからの長い付き合いがあり、時期により又各人によって親交の程度にはばらつきがあるものの、被相続人の死の間際までそれぞれ精神的な繋がりを保っており、その死後は協力してその祭祀をとり行ってきたもので、しかも相続財産を抗告人両名及び忠が引き継ぐことは被相続人の意思であり、被相続人が遺言をしたとすれば遺贈の配慮をしたと認められるものであるから、抗告人両名及び忠を、被相続人と特別の縁故があったものと認め、抗告人両名及び承継人両名に対し被相続人の相続財産の一部を分与するのが相当である。そして、各人毎に分与すべき具体的な相続財産は、本件に顕れた一切の事情を考慮して、主文のとおり定めるのが相当である。

5  以上の次第で、抗告人両名及び承継人両名の各申立を却下した原審判は相当でないから、家事審判規則第19条2項により、これを取り消して自ら審判に代わる裁判をすることとし、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 山中紀行 裁判官 寺崎次郎 井戸謙一)

別紙(1)

抗告の趣旨

原裁判を取消し、京都家庭裁判所に差戻すとの裁判をもとめます。

抗告の理由〈省略〉

別紙(2)

抗告の趣旨

原裁判を取消し、京都家庭裁判所に差戻すとの裁判をもとめます。

抗告の理由〈省略〉

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